DCコンサルタントとして企業の退職金制度に向き合う中で、時々こう思うことがあります。
「そもそも退職金って、いつから、そしてなぜ存在しているんだろう」と。
昨今の制度改正を追いかけるのは大事なことです。
でも、今の制度がどういう文脈の中で生まれてきたのかを知っておくと、目の前の制度を見る目が少し変わるのではないかと思っています。
ということで、今回から数回にわたって、退職金制度の歴史をたどるシリーズを始めます。
初回は「総論」として、江戸時代の起源から現在の企業型DCに至るまでの流れを、大きな見取り図として俯瞰します。
個々の時代や制度の深掘りは次回以降に譲り、まずは全体の地図を手に入れるところから始めていきます。
江戸時代:退職金の原型は「のれん分け」だった
退職金の起源は、江戸時代の商家における「のれん分け」にあるとされています。
丁稚から番頭へと長年勤め上げた奉公人に対して、主人が同じ屋号で商いを営む権利、すなわち「暖簾」を分け与える。これがのれん分けです。
のれん分けには、奉公人の長年の働きに対する功労・慰労の意味がありました。同時に、将来の生活と仕事を保障するという役割も持っていました。
ただし、採用できるのは一部の大きな商家に限られていました。この時代の退職金はまだ「制度」というよりも「慣行」であり、すべての働く人に開かれたものではありませんでした。
やがて市場が飽和し、独立のコストが増加すると、のれん分け自体が難しくなっていきます。そこで、主人と奉公人の双方が賃金の積立を行い、奉公勤めが明けた者に金一封を贈る慣行が生まれた、とされています。
ここに、「長く勤めた人に対して、退職時に金銭を渡す」という、現在の退職金の原型が見えます。
明治〜戦前:「人を引き留める仕組み」としての退職金
明治中期以降、退職金は次第にその性格を変えていきます。
産業の近代化にともない、熟練労働者の確保が企業にとって重要な課題になりました。在職年数に応じて退職金が増える仕組みを設けることで、労働者を長期間引き留めようとしたのです。
一方で、この時期には「強制貯蓄」という制度も存在していました。劣悪な労働環境から労働者が逃げ出さないよう、給与の一部を強制的に積み立て、雇用期間が満了するまで支払わない、という仕組みです。
三菱や三井といった大企業では、長期勤続の社員に退職金とは別に年金を支給する制度もありました。三菱では勤続25年で退職時給料年額の4分の1を毎年支給し、三井では最終月俸の3か月分を支給していたとされています。
1936年には「退職積立金及退職手當法」が公布されます。退職金に関する法的な枠組みが初めて整備された時期です。
ただし、この時期の退職金はまだ一部の大企業・官公庁が中心であり、日本全体に広く普及するのは戦後を待つことになります。
戦後〜高度成長期:退職金が「当たり前」になった時代
今の退職金制度が形作られたのは、第二次世界大戦直後です。
1946年、電気産業労働組合の労働争議の中で、退職金について「生涯を電気産業に捧げたる如き従業員に対しては定年退職後約10年間の生活保障をなす」という暫定協定が結ばれました。
これを契機に、多くの労働組合から「退職金は賃金の後払いであり、従業員の失業後や老後の生活保障である」という主張が広がり、退職金の導入は一気に加速しました。終身雇用制度もこの時期に誕生し、退職金と一体となって高度経済成長を支えることになります。
企業年金制度も、この時代にスタートします。
1959年に中小企業退職金共済法が制定され、中小企業が退職金を準備するための共済制度が整備されました。
1962年には税制適格退職年金(適格退職年金)が導入されます。企業が外部の金融機関に掛金を積み立て、退職時に年金として支給する仕組みです。
1966年には厚生年金基金が創設されました。国の厚生年金の一部を企業が設立する基金が代行し、そこに企業独自の上乗せ給付を加える制度です。
適格退職年金と厚生年金基金。この2つが、戦後日本の企業年金の二本柱となりました。
1970年代には、退職金の導入率は90%を超えます。退職金は「あって当たり前」の制度として定着しました。
バブル崩壊〜2000年代:退職金が「重荷」になった時代
ところが、バブル崩壊を境に、この構造が揺らぎます。
運用環境の悪化により、適格退職年金や厚生年金基金の積立不足が深刻化しました。「約束した金額を将来支払う」という確定給付型の仕組みは、運用がうまくいかなければ企業が不足分を穴埋めしなければなりません。退職給付会計の導入により、その債務が企業の決算上に計上されるようになると、退職金制度は経営にとって「重荷」として意識されるようになりました。
こうした中で、2001年に2つの法律が制定されます。
確定拠出年金法と確定給付企業年金法です。確定拠出年金法は同年10月に施行、確定給付企業年金法は翌2002年4月に施行されました。
確定給付企業年金(DB)は、適格退職年金や厚生年金基金に代わる受け皿として設計されました。受給権の保護や財政検証のルールが整備され、従来の制度よりも健全な運営を目指す制度です。
一方、確定拠出年金(DC)は、企業が掛金を拠出し、従業員自身が運用する仕組みです。企業にとっては、掛金を拠出した時点で債務が確定するため、将来の積立不足リスクがありません。
適格退職年金は2012年3月末で廃止されました。厚生年金基金も、2012年のAIJ投資顧問事件を経て、2014年4月以降は新規設立が認められなくなり、多くが解散またはDBへの移行を余儀なくされました。
企業年金の世界は、この約10年で大きく姿を変えたことになります。
現在:企業型DCの時代と、その先にあるもの
確定拠出年金法が施行された2001年当初、DCは必ずしも歓迎されたわけではありませんでした。
「企業が責任を持っていた退職金を、従業員が自分で運用しなければならなくなった」「企業から従業員への責任転嫁ではないか」そうした声もありました。
しかし、時間の経過とともに、DCは着実に普及しました。2025年3月末時点で企業型DCの導入事業所は58,000社を超え、加入者は約860万人に達しています。
そして2026年、DCは再び大きな制度改正の年を迎えています。マッチング拠出の制限撤廃、拠出限度額の引き上げ、iDeCoの加入可能年齢の70歳への延長。制度の枠組みは着実に広がり続けています。
おわりに
江戸時代の「のれん分け」から2026年の企業型DC改正まで、退職金制度の歴史をこうして俯瞰してみると、一つの流れが見えてきます。
「長く勤めた人への報い」として始まった退職金は、やがて「賃金の後払い」「老後の生活保障」として広がり、企業年金という仕組みを生み、バブル崩壊を経て「企業から個人への移行」という大きな転換を迎えました。
その転換の中心にあるのが、確定拠出年金(DC)です。
DCコンサルタントが今日扱っている制度は、数百年にわたる退職金制度の歴史の延長線上にあります。その流れを知っておくことは、目の前の改正や実務を理解する上での土台になるのではないかと思っています。
次回以降は、この歴史の中からそれぞれの時代を深掘りしていきます。まずは戦後の退職一時金制度がどのように形作られたのか。そして、そこから企業年金がなぜ必要とされたのかを、もう少し丁寧にたどってみたいと思います。

