退職金が「当たり前」になり、企業年金が生まれるまで ~戦後から1966年の20年間をたどる~

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前回のブログでは、江戸時代の「のれん分け」から現在の企業型DCまで、退職金制度の通史を一本の線として俯瞰しました。

今回からは、その線の中からそれぞれの時代を掘り下げていきます。

今回は、1946年から1966年までの約20年間。退職金が一部の大企業の慣行から「日本中の企業にあって当たり前のもの」へと変わり、さらにそれが「企業年金」という新しい仕組みへと進化していくまでの流れをたどります。

この20年間を一言で表現するなら、「退職金が生まれ、広がり、限界にぶつかり、外に出た」。そんなストーリーになります。


1946年:退職金が「権利」になった瞬間

戦後の退職金制度を語る上で、避けて通れない出来事があります。

1946年、電気産業労働組合(電産)の労働争議です。

終戦直後の日本は、激しいインフレと深刻な食糧不足に見舞われていました。労働者の生活は極度に困窮し、各地で労働争議が頻発していた時代です。

その中で、電産は会社側と暫定協定を結びます。その中に、退職金に関する重要な一文がありました。

「生涯を電気産業に捧げたる如き従業員に対しては、定年退職後約10年間の生活保障をなす」

退職金が、経営者からの恩恵や慰労ではなく、「生活保障」として明確に位置づけられた瞬間でした。

この電産争議は、退職金だけでなく、賃金体系にも大きな影響を与えました。電産型賃金体系と呼ばれる生活保障型の賃金制度は、賃金総額の約8割を生活保障給で構成し、年齢や家族構成を基準に賃金が決まる仕組みでした。その後多くの企業に広がり、年功型の賃金体系が日本中に定着する原型となりました。

退職金も、同じ文脈の中で広がっていきます。「賃金の後払い」であり、「退職後の生活保障」である。この考え方が労働組合を通じて各企業に浸透し、退職金は急速に「あって当たり前のもの」になっていきました。


高度成長期:退職金が日本中に広がった背景

1950年代後半から始まった高度経済成長は、退職金の普及をさらに加速させます。

企業は急速に拡大し、従業員を大量に採用しました。人を採り、育て、長く働いてもらう。そのための仕組みとして、年功序列の賃金制度と終身雇用慣行が一体となって機能していた時代です。

退職金は、その一体的な仕組みの中核にありました。

「長く勤めるほど退職金が増える」という設計は、従業員にとっては将来の安心であり、企業にとっては人材を引き留める装置でした。高度成長の時代に企業と従業員の関係を安定させたのは、終身雇用と退職金のセットだったと言ってもよいと思います。

1970年代には、退職金の導入率は90%を超えます。退職金は、一部の大企業の制度から、日本の働き方そのものに組み込まれた仕組みへと変わりました。


退職金が「重くなった」(社内準備の限界)

ところが、退職金が広がれば広がるほど、ある問題が大きくなっていきます。

退職金の「支払い」です。

この時代、多くの企業は退職金を社内に積み立てる形で準備していました。いわゆる社内準備です。帳簿上の引当金として計上しておき、退職者が出たときにそこから支払う。

従業員が少ないうちは、これでも回ります。

しかし、高度成長期に大量採用された従業員たちが、やがて一斉に退職の時期を迎えることになります。退職者が増えるにつれて、一度に必要となる支払い額が膨らみ、企業経営を圧迫し始めました。

退職金は「約束」です。でも、その約束を果たすための資金を、社内に抱え込んだまま準備し続けることには限界がある。

この問題意識が、「退職金の原資を社外に出す」という発想につながっていきます。


1959年:中退共の誕生、中小企業への手当て

最初に動いたのは、中小企業向けの仕組みでした。

1959年、中小企業退職金共済法が制定されます。

大企業と違い、中小企業は自力で退職金を準備する体力が限られています。社内に十分な引当金を積むことが難しい。かといって、退職金がなければ人材の採用・定着にも不利になる。

中退共は、中小企業が共済の形で掛金を外部に拠出し、従業員の退職時に共済機構から退職金が支払われる仕組みです。国の助成もあり、中小企業にとっては退職金を無理なく準備できる受け皿として広がっていきました。

ただし、中退共はあくまで退職「一時金」の制度であり、年金の仕組みではありません。退職金を「分割して、年金として受け取る」という発想が制度として動き出すには、もう少し時間が必要でした。


1962年:適格退職年金の登場、「退職金を年金にする」という発想

1962年、法人税法と所得税法の改正により、税制適格退職年金(適格退職年金)が導入されます。

これは、企業が生命保険会社や信託銀行などの外部金融機関と契約し、年金原資を外部に積み立てる仕組みです。一定の要件を満たして国税庁長官の承認を受ければ、事業主の掛金は全額損金に算入できるという税制上の優遇がありました。

企業にとってのメリットは、大きく2つありました。

1つ目は、退職金の原資を社外に積み立てることで、支払い負担を平準化できること。毎年の掛金として外部に拠出していくため、退職者が集中しても一度に大きな支出が発生しにくくなります。

2つ目は、税制上の優遇です。社内準備では損金算入に制約がありましたが、適格退職年金を通じて外部に拠出すれば、掛金の全額を損金にできました。

設立の人数要件が15人と少なかったこともあり、大企業だけでなく中小企業にも広く普及しました。1990年代前半には契約件数が9万件を超え、加入者は1,000万人に達しています。

ここで一つ、大事なことを付け加えておきます。

適格退職年金は、税法上の制度であって、労働法や年金法に基づく制度ではありませんでした。

そのため、受給権の保護や財政の健全性を監督する仕組みは十分に整備されていなかった。この構造的な弱点が、後にバブル崩壊後の積立不足問題につながっていくことになります。

ただ、この時点では、適格退職年金は「退職金を外に出し、年金として届ける」という新しい発想を日本に根づかせた画期的な制度でした。


1966年:厚生年金基金の創設、企業年金の二本柱が揃う

適格退職年金の誕生から4年後、もう一つの大きな制度が生まれます。

1966年、厚生年金基金が創設されました。

厚生年金基金は、国の厚生年金の一部を企業が設立する基金が代行し(代行給付)、そこに企業独自の上乗せ給付を加えるという仕組みです。公的年金と企業年金を一体的に運営する、日本独自の制度でした。

適格退職年金が「税制優遇を軸にした外部積立」であるのに対し、厚生年金基金は「公的年金との連動」を軸にした設計です。

この2つの制度(適格退職年金と厚生年金基金)が、戦後日本の企業年金の二本柱となりました。

退職金は、ここで一つの転換を迎えます。

「退職時に一括で支払う一時金」から、「外部に積み立てて、年金として届ける仕組み」へ。企業の内側に閉じていた退職金が、社外の金融機関や基金を通じて運用・給付される形に変わっていったのです。


おわりに

今回は、1946年から1966年までの20年間をたどってきました。

電産争議で「生活保障」として位置づけられた退職金は、高度成長とともに日本中に広がり、やがて社内準備の限界にぶつかりました。そこから生まれたのが、中退共、適格退職年金、厚生年金基金という「外に出す」仕組みです。

この流れを、私はこう整理しています。

退職金は、「社内の約束」から「社外の仕組み」へと進化した。それが企業年金の始まりだった、と。

ただし、この時代に作られた仕組みには、後に大きな問題を引き起こす構造的な弱点も含まれていました。適格退職年金の監督体制の弱さ。厚生年金基金の代行リスク。これらは、バブル崩壊後に一気に表面化します。

次回は、企業年金の「黄金期」から「崩壊」へ。1970年代から2000年代にかけて何が起きたのかを、もう少し丁寧にたどってみたいと思います。

最後に、一つだけ付け加えさせてください。

DCコンサルタントとして仕事をしていると、どうしても目の前の制度改正や日々の実務に意識が向きがちです。それ自体は大切なことです。でも私は、こうして過去の歴史をたどることも、この仕事に深みを持たせてくれるのではないかと思っています。

今ある制度がなぜこの形なのか。どういう問題意識の中から生まれてきたのか。それを知っている人の言葉は、知らない人の言葉とは違う重みを持つように感じます。

過去を知ることは、今を語る力になる。このシリーズが、そのきっかけの一つになれば嬉しく思います。