企業年金の「黄金期」から「見直しの時代」へ 1970年代から2000年代に、何が起きたのか

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前回のブログでは、戦後から1966年までの約20年間をたどり、退職金が「当たり前」の制度となり、企業年金という仕組みが生まれていく流れを見てきました。

戦後の生活保障としての退職金。

高度経済成長の中で広がった退職一時金。

そして、退職金の支払いを平準化し、従業員の老後をより安定的に支える仕組みとして登場した企業年金。

この流れを見ると、退職金制度は、単に企業が従業員にお金を支払う仕組みではなく、その時代の雇用、経済、社会保障のあり方と深くつながっていたことがわかります。

今回はその続きとして、1970年代から2000年代にかけて、企業年金がどのように広がり、そしてなぜ大きな見直しを迫られることになったのかをたどってみたいと思います。

この時期は、企業年金にとって一つの「黄金期」であり、同時に、その仕組みの限界がはっきり見え始めた時代でもありました。


企業年金が広がっていった時代

1960年代に、企業年金の大きな土台が整いました。

1962年には税制適格退職年金が認められ、1966年には厚生年金基金ができました。退職年金は、企業側の都合や労働者の要望に応える形で、国が制度として認めるようになっていきます。

そこから1970年代に入ると、企業年金は少しずつ、企業の退職給付制度の中で存在感を増していきました。

背景にあったのは、長期雇用を前提とした日本型の雇用慣行です。

新卒で入社し、同じ会社で長く働き、定年まで勤める。

その働き方を支える制度として、退職金や企業年金はとても相性がよかったのだと思います。

企業にとっては、従業員に長く働いてもらうための仕組み。

従業員にとっては、定年後の生活を支える安心材料。

そして社会全体から見ると、公的年金を補完する老後保障の一部。

企業年金は、この三つの意味を持ちながら広がっていきました。

当時の企業年金は、基本的には「将来いくら給付するか」を企業が約束する仕組みでした。

いわゆる確定給付型です。

従業員にとっては、将来受け取れる金額の見通しが立ちやすい。

その意味では、とても安心感のある制度でした。

一方で、企業から見ると、その約束を将来にわたって守る責任を負うということでもあります。

ただ、1970年代から1980年代にかけては、その責任の重さが今ほど強く意識されていなかったのかもしれません。

なぜなら、当時は制度を支える環境が良かったからです。


黄金期を支えていたもの

企業年金の黄金期を支えていたものは、制度そのものだけではありません。

その背後には、いくつかの追い風がありました。

まず、経済成長です。

企業業績が伸び、賃金も上がり、雇用も比較的安定していました。

企業が将来の退職給付を約束する上で、成長への期待は大きな支えになっていたはずです。

次に、運用環境です。

高度成長期からバブル期には資産の運用成績がよく、少ない掛金で給付のための資金を準備できたため、企業年金は大きな力を発揮していました。

そしてもう一つは、働き方です。

長く同じ会社で働くことが前提であれば、企業が退職時や老後の給付を設計しやすくなります。

従業員もまた、その会社で長く働いた先に退職金や年金がある、という人生設計を描きやすかったのではないでしょうか。

つまり、当時の企業年金は、制度だけで成り立っていたのではありません。

成長する経済。

比較的良好な運用環境。

長期雇用を前提とした働き方。

この三つが重なって、企業年金は「強い制度」として機能していました。

ただし、この強さは、環境が変わらないことを前提にした強さでもありました。

ここが大事なところです。

企業年金は、従業員に安心を与える制度でした。

しかしその安心は、企業が将来の給付を約束し続けられることが前提でした。

経済が伸び、運用がうまくいき、雇用が安定している間は、その前提は見えにくかった。

けれど、前提が崩れ始めると、約束の重さが一気に表に出てくることになります。


バブル崩壊で見えてきた「約束の重さ」

1990年代に入ると、企業年金を取り巻く環境は大きく変わります。

バブル崩壊です。

株価は下がり、金利も低下し、業績も厳しくなっていきました。

それまで期待できていた運用収益が、思うように得られなくなります。

ここで問題になったのが、企業が過去に約束してきた給付です。

確定給付型の企業年金では、将来の給付を企業が約束しています。

運用がうまくいけば、少ない掛金でも給付原資を準備できます。

しかし、運用が想定通りにいかなければ、その不足を企業が埋めなければなりません。

つまり、運用環境が悪化すると、企業年金は企業にとって大きな負担になっていきます。

ここで重要なのは、制度が悪くなったというより、制度を支えていた前提が変わったということです。

制度が作られた時代には合理的だった前提が、10年、20年経つと現実に合わなくなる。

しかし、約束した給付は残ります。

従業員から見れば、それは老後の生活設計の一部です。

企業から見れば、将来に向けた債務です。

黄金期には見えにくかった「約束の重さ」が、バブル崩壊後に一気に表面化していったのです。


会計上も、約束は見えるようになっていった

もう一つ、この時期に大きかったのが、退職給付に関する会計の変化です。

企業年金の問題は、運用環境の悪化だけではありませんでした。

企業が将来支払う退職給付を、企業会計の中でどう認識するのかも重要な論点になっていきます。

1998年6月に「退職給付に係る会計基準」が公表され、2000年4月から始まる事業年度から適用されました。これにより、企業は退職給付債務や年金資産の状況をより明確に認識することになりました。

これは、企業にとってかなり大きな変化だったと思います。

それまで見えにくかった将来の退職給付の負担が、会計上も見えるようになる。

運用が悪化しているだけでなく、その不足が企業経営の数字としても意識されるようになる。

そうなると、企業年金は福利厚生の一部であると同時に、経営上の重要なテーマにもなっていきます。

退職金や企業年金は、従業員のための制度です。

でも同時に、企業が将来に向けて負う約束でもあります。

その約束の大きさが、運用環境の悪化と会計上の可視化によって、よりはっきり見えるようになっていったのです。


2000年代に始まった制度の大きな組み替え

こうした状況を受けて、2000年代に入ると、企業年金制度は大きく組み替えられていきます。

それまでの中心的な制度だった税制適格退職年金や厚生年金基金は、制度の見直しを迫られます。

一方で、新しい選択肢として、確定拠出年金と確定給付企業年金が整備されていきました。

2001年に確定拠出年金法と確定給付企業年金法が制定され、2001年・2002年に順次施行されました。あわせて、税制適格退職年金の廃止が決まり、厚生年金基金についても健全な運営のために基準が厳格化されました。

実際に、税制適格退職年金制度は、2002年4月から新規発足ができなくなり、2012年4月以降は税制上の優遇措置が受けられなくなったため、実質的に廃止されました。

ここで登場したのが、企業型DCです。

企業型DCは、事業主が掛金を拠出し、その掛金と運用益との合計額をもとに将来の給付額が決まる制度です。

確定給付型では、企業が将来の給付を約束します。

一方、企業型DCでは、企業は掛金を拠出し、加入者自身が運用に関わります。

企業の責任がなくなったわけではありません。

ただ、責任の形が変わったのです。

これは単なる制度の追加ではありません。

退職給付の考え方そのものが、「会社が約束する制度」から、「会社と加入者がそれぞれの役割を持つ制度」へ移っていく大きな転換だったと言えます。


崩壊ではなく、前提の変化だったのかもしれない

企業年金の歴史を「黄金期から崩壊へ」と表現すると、少し強い言い方に聞こえるかもしれません。

確かに、バブル崩壊後、従来の企業年金制度は大きな見直しを迫られました。

税制適格退職年金は廃止に向かい、厚生年金基金についても代行返上や、その後の解散・他制度への移行が進んでいきました。

ただ、私はこれを単なる「崩壊」とだけ見ると、少しもったいないような気がします。

むしろ、企業年金を支えていた前提が変わったのだと思います。

経済が右肩上がりで成長する。

良好な運用環境が続く。

従業員が一つの会社で長く働く。

企業が将来の給付を約束し続けられる。

こうした前提が弱くなったとき、制度も変わらざるを得なかった。

その結果として、DBやDCという新しい制度が整えられていった。

そう考えると、企業型DCは突然生まれた制度ではありません。

従来の企業年金が抱えていた限界と、社会の変化の中から出てきた制度です。

だからこそ、企業型DCを語るときには、単に「自分で運用する制度です」と説明するだけでは足りないのだと思います。

なぜ企業が将来の給付を約束し続けることが難しくなったのか。

なぜ掛金を拠出し、運用は加入者が選ぶ仕組みが必要になったのか。

その背景を知ることで、制度の見え方は大きく変わります。


私自身も、この変化を会社員として経験

実は、私自身もこの流れを、会社員として経験しています。

私は以前、ある大手重工メーカーで働いていました。

記憶が少し曖昧なところもありますが、2015年前後に会社でDCが導入されたと記憶しています。

当時は、野村證券の方が制度説明に来てくださった記憶があります。

もちろん、制度を正確に説明するためには、専門的な言葉も必要だったのだと思います。

ただ、受け手である当時の私にとっては、専門用語が多く、正直なところ十分に理解できたとは言えませんでした。

「退職金制度の一部が変わるらしい」

「自分で運用商品を選ぶ必要があるらしい」

その程度の受け止めだったように思います。

今振り返ると、制度の重要性に比べて、自分ごととして理解するところまでは届いていなかったのかもしれません。

けれど、今あらためて退職金制度の歴史をたどってみると、その出来事の見え方が変わります。

あれは単に一つの会社で新しい制度が入ったという話ではなく、企業が将来の給付を約束する時代から、会社と従業員がそれぞれの役割を持って将来に備える時代へ移っていく、大きな流れの中にあったのだと感じます。

制度の中にいるときには、その意味はなかなか見えません。

でも、後から歴史の流れの中で見直してみると、自分が経験した制度変更も、社会全体の変化とつながっていたことに気づきます。


DCコンサルタントが歴史を知る意味

ここまで退職金と企業年金の歴史をたどってくると、DCコンサルタントにとって大事なことが見えてきます。

それは、制度を「今のルール」だけで語らないことです。

企業型DCは、現代の制度です。

掛金、商品選択、投資教育、受取方法。

実務として押さえるべきことはたくさんあります。

ただ、その前に、なぜこの制度が必要になったのかを知ることも大切です。

企業年金の黄金期には、会社が将来を約束することに大きな意味がありました。

しかし、経済環境や雇用環境が変わる中で、その約束を維持することが難しくなった。

だからこそ、制度は変わり、企業型DCのように、企業と加入者が役割を分担する仕組みが広がっていきました。

この流れを知っていると、DCの説明は少し変わります。

「自分で運用しなければならない制度です」

ではなく、

「会社が掛金を出し、従業員が自分の将来に関わる制度です」

と伝えられるようになります。

「自己責任の制度です」

ではなく、

「企業と従業員が、それぞれの役割を持って将来に備える制度です」

と説明できるようになります。

この違いは小さくありません。

そして、私自身が当時よく理解できなかった経験も、今の仕事につながっています。

制度は、正確に説明すれば伝わるわけではありません。

専門用語を並べるだけでは、受け手は自分ごとにできないことがあります。

大切なのは、制度の背景や意味を、相手が理解できる言葉に置き換えることです。

私は、そこを担うのがDCコンサルタントなのだと思っています。

制度を難しいまま伝えるのではなく、わかる言葉に噛み砕く。

そして、「これは自分の将来に関係する制度なのだ」と受け止められるところまで支援する。

その役割があるからこそ、DCコンサルタントという仕事には意味があるのだと思います。

制度の歴史を知ることは、説明に厚みを持たせることです。

そして、相手が制度を自分ごととして受け止めるための言葉を持つことでもあります。


おわりに

1970年代から2000年代にかけて、企業年金は大きく姿を変えました。

高度成長と長期雇用、良好な運用環境に支えられた黄金期。

バブル崩壊と低金利によって見えてきた、約束の重さ。

退職給付会計によって、より明確に意識されるようになった将来の負担。

そして、従来の制度を見直し、DBやDCという新しい選択肢が整えられていった2000年代。

この流れは、単なる制度史ではありません。

企業が従業員の老後をどう支えるのか。

従業員自身が自分の将来にどう関わるのか。

その役割分担が変わっていく歴史でもあります。

だからこそ、DCコンサルタントが企業型DCを語るときには、制度の機能だけではなく、その背景にある流れも伝えたいところです。

企業型DCは、ある日突然生まれた制度ではありません。

企業年金の黄金期と、その後の見直しの時代を経て生まれてきた制度です。

この歴史を知ることで、私たちは制度を少し違った目で見ることができます。

そして、制度を“知識”としてではなく、企業と従業員の将来を支える“仕組み”として伝えられるようになるのではないでしょうか。

次回は、この流れを受けて、2001年に誕生した確定拠出年金、つまり企業型DCが、退職金制度の中でどのような意味を持つようになったのかを考えていきたいと思います。